【登場人物】
菜箸 かな:フリーランスの翻訳家。しなやかな知性を持ち、物事をフラットに捉える。お酒が好き。移動図書館担当菜箸千夏の姉。
辻 さゆり:フリーランスの凄腕校正者。無駄な装飾や論理の破綻を容赦なく削ぎ落とす「言葉の外科医」。
【場面設定】
夕暮れ時。ここあん湖畔のブックカフェ「シズカ」。窓際の席で、辻さゆりがゲラの束に向かい、無表情で赤ペンを走らせている。向かいの席では、菜箸かながクラフトビールのグラスを傾けている。

辻さゆり:(つぶやく)「プライドの城壁が音を立てて崩れ去った」。(赤ペンで直線を一本引き)陳腐な比喩。不正確な物理現象。この「城壁」は概念であり、音は鳴らない。削除。
菜箸かな:(グラスを置き、さゆりの手元を覗き込む)あら、それって主人公が必死に守ろうとしてきた自尊心が崩壊する場面でしょう? 作者も気に入ってるんじゃない?
さゆり:作者がどう思おうと、過剰な自尊心を表現するために不正確な比喩を用いることは、読者の没入感を阻害します。単なるノイズです。
かな:そうね。人が必死に守ろうとするプライドなんて、傍から見れば滑稽なものよね。でも、そんな歪んだ言葉のなかにこそ、人間の本当の姿が翻訳されているとは思わない? 誰も教科書のような正確さだけを求めて読んでいないのだから、そんなに厳密に削らなくてもいいのに。
さゆり:辞書にない歪みだからこそ、修正するのです。私は事実と論理を整えているだけです。
かな:ふふ。あなたはいつもそうやって、完璧な秩序で自分を囲っているわね。とっても苦しそう。(ビールのグラスの縁を指でなぞる)いっそ言葉を失くしてしまえばいい。意味を持たないただの肉体に戻る方が、ずっと救われると思わない?
さゆり:(手を止めずに)言語による論理構築を放棄し、肉体的な接触に移行することは、物理的な相性を確認する手段としては合理的です。ですが、校正中にそれを実行することは、不誠実の極みです。そもそも、ゲラを盗み見るのはやめてほしいのですが。
かな:ふふ、それゲラじゃないでしょう? 文芸誌の最新号のコピーじゃない。
さゆり:わかるんですか?
かな:わかるわよ。でも、あなたもさすがね。どんな誘惑も論理で切り返す。ねえ、正解だけが並んだ世界って、少し退屈じゃない?
さゆり:酔ってるんですか? 私は退屈ではないです。明確は善です。
かな:あなたは、そうなのね。(グラスの残りを飲み干す)誰も私を誤訳してくれないのなら、私は私という退屈な正解を、一人で抱えて生きていくだけ。
さゆり:(かなの顔を見る。真意をうかがう表情)それは……。翻訳家であるあなたが、誤訳を肯定するのですか?
かな:私は世界を正しく翻訳するために生きてきたけれど、本当に欲しかったのは、私のすべてを根底から狂わせてくれる、圧倒的な誤訳だったのかもしれないわ。
さゆり:(赤ペンを置き、かなを真っ直ぐに見る)そんな「圧倒的な誤訳」が私の眼の前に流れてきたら、容赦なく赤字を入れさせていただきます。
かな:(楽しそうに目を細め)やれやれ。あなたにだって直せやしないわよ。(カウンターに向かって)ねえ静さん、クラフトビール、もう一杯お願い。
さゆり:アルコールの過剰摂取は、脳の認知機能を低下させ、正確な判断を鈍らせます。
かな:怯える暇があるなら、目の前の現実を正確に読み解きなさい。酒の酔いなど、所詮は、世界が少し手荒にページをめくるだけの風よ。
さゆり:ここにも、不正確な物理現象が。グラスにビールが注がれるだけの現象を、無駄に文学的に修飾しないでください。赤字を入れますよ。
かな:あはは。モトイキで。
(幕)
作・千早亭小倉





