【登場人物】
岸辺 義道:ここあん大学の自主映画サークル所属。斜に構えた批評家気質だが、映画制作への情熱は熱い。昭和の作品を孤高の芸術として神格化しがち。
恋流波 東彦:義道のサークル仲間の父。学生時代に8ミリ映画を撮っていた昭和の男。当時のエンタメの泥臭いサービス精神を体感として知っている。
【場面設定】
居酒屋「ここきた」。カウンター席で、東彦がホッピーを飲んでいる。隣に義道が座っている。

岸辺義道:東彦さん。俺、CSの日本映画専門チャンネルでついに観たんですよ。『悪魔のようなあいつ』。昭和ドラマの傑作、まさに神話ですわ。
恋流波東彦:君たち若いのは、すぐに神話だなんだとありがたがるな。軽いんだよ。
義道:観る前は、原作阿久悠と音楽大野克夫の気だるい美学に彩られた、完璧にコントロールされた孤高の芸術やと聞いてたんです。でも、完全に脳内をひっくり返されましたわ。あれ、別の意味でとんでもない神話ですね。
東彦:ジュリーはいいだろ、毎週脱ぐし。でも、別の意味でってどういうことだ。
義道:最初のほうの回ですよ。第2話。あ、東彦さんは見てるんですよね。
東彦:当たり前だ。全部頭に入っているよ。
義道:(疑わしそうな目をしつつ)藤竜也が経営してる怪しいバーみたいな店あるじゃないですか。あそこで、ゲストの尾崎紀世彦がジュリーを他の客やスタッフの前でねちねちいたぶるんですよ。
東彦:ああ、あの回か。あれな。どうだった。
義道:ジュリーの昔の話とか持ち出すんですけど。
東彦:ジュリーじゃなくて、主人公な。まぎらわしいな、こういう話は。
義道:えっと、沢田研二演じる可門良のことをいたぶるんですけど、それがやたら長いんです。放送禁止用語もばんばん飛び交って。そして、その流れで、同じ空間のままでですよ。突如、白戸って警部がデカい模造紙をバーンって広げて、店の中で、三億円事件の独自の推理を客たちの前で講義し始めるんですわ。
東彦:(吹き出して笑う)あはは。白戸? ああ、若山富三郎な。あったあった。三億円事件推理おじさんとか言ってな。
義道:笑い事ちゃいますよ。場面転換すらしないんですよ。ネットリしたいじめ描写から、ドリフみたいに舞台も回らずに、異様ですよ。いきなり、いじめからプレゼンですよ。その模造紙どこで用意してきたんやって、チープさと紙一重の、何とも言えない手抜き感というか、剥き出しの空間の使い方。俺、現代の映画的なリアリズムを超えた、恐ろしいアヴァンギャルドを観た気がして、鳥肌立ちましたわ。
東彦:前衛ねえ。義道くん、それを前衛って言葉で高尚に回収しようとしている時点で、まだ神格化の呪縛から抜けてないよ。それ、単なる久世のお遊びだから。
義道:あ、くぜみつひこ。
東彦:てるひこな。久世光彦。昭和の天才演出家。
義道:お遊びって、あんな地続きの狂気がですか。
東彦:そうだよ。あの人は『時間ですよ』とか『ムー一族』とかで、ドラマの途中に突然歌のコーナーを入れたり、テレビの黎明期でもないのに生放送でドラマをやらせたり、ドラマと笑いと現実の境界線をグチャグチャにするのがお家芸の人なの。だから、緊迫感の中にちょっとコミカルなテンポをそのまま放り込む、テレビ的なお楽しみのノリがいっぱいだろう。
義道:いや、でも。『時間ですよ』的なノリやとしても、あの地続きの演出は、虚構と現実を融解させるための意図的な試みで。
東彦:まだ言うか。当時のテレビは良くも悪くも泥臭くて、毎週1時間、お茶の間を飽きさせずに驚かせるための、過剰なサービス精神で動いていたわけだ。高尚な芸術映画を作ろうとしてあんな舞台みたいな割り切り方をしたんじゃなくて、狭いセットだけど、ここで若山さんに熱弁させたら面白いという、勢いとハプニング性なんだよ。(小声で)諸説あり。(地声に戻り)君ら若い世代は、昭和のドラマを綺麗にパッケージされた伝説の傑作として拝みすぎなんだよな。
義道:美化ちゃいます。俺はむしろ、そのむちゃくちゃな熱量自体に、現代のコンプライアンスに縛られた映像作品にはない、別の意味での神話性を感じてるんですわ。映画的な正しさなんてどうでもいい、面白ければ何でもありっていう、当時の作り手の命がけの悪ノリというか。
東彦:まあな。あのころは大作映画にしたって、サスペンスの場面でポヨヨンポヨヨンみたいな不思議な前衛音楽が流れてきたりな。(少し遠い目をして)『悪魔のようなあいつ』にしても、時効の日に合わせて最終回を持ってくるっていう、あの現実を巻き込んだ不謹慎なエネルギーは、確かに今じゃ絶対真似できない神がかったノリかもな。でも、当時の俺たちはそれをもっと、君たち世代で言うとフラットに消費していたんだよ。
義道:ふらっと、店に入る的な。
東彦:昭和かよ。まあいいや。あのころの俺たちは、フラットに、「おいおいジュリーまた脱いだよ」とか、「なんだ今回は時の過ぎ行くままにはBGMだけかよ」とか、「この何度も英語の文字が流れてくるの怖いな」とか、お茶の間で寝転がりながらスキャンダラスに消費していたんだ。
義道:スキャンダラスに? 東彦さん、その言葉、ぜんぜん似合ってないっす。
東彦:うるさいよ。まあ、君みたいに画面の隅々まで深読みして、記号として崇めていたわけじゃないってことだよ。
義道:うぐっ。リアタイ世代のその、日常として狂気を消費してたマウント、一番悔しい。でも、認めざるを得ないですわ。あのジュリーの濡れ場も、若山富三郎の模造紙も、俺らが考える高尚な芸術の枠には収まらない、もっと泥臭くて過激なテレビの塊やったんですね。よし、自主映画のコンテ、昭和テレビドラマにおける、久世光彦演出の不条理な地続き性と、過剰なサービス精神がもたらす神話作用をテーマに書き直しますわ。
東彦:難しく考えずに、裸を模造紙でくるんだり……。
義道:しません!
東彦:まあ、いいから続きを観なよ、もっとわけがわからないコントがいっぱい出てくるから。
(幕)
作・千早亭小倉




