【登場人物】
辻 さゆり:フリーランスの校正者。「言葉の外科医」。事実と整合性のみを愛する。
徒 然士:ここあん大学日本文学科講師。完璧な様式美を信奉する偏執狂。
菜箸 かな:フリーランスの翻訳家。しなやかな知性を持ち、物事をフラットに捉える。
東山 キイロ:喫茶「小古庵」のアルバイト。底抜けに明るい「天然のクラッシャー」。
【場面設定】
昼下がりの喫茶「小古庵」。カウンター席で、辻さゆりが村の観光パンフレットに勝手に赤ペンを走らせている。隣で徒然士がコーヒーをすすり、菜箸かながノートパソコンの画面を見つめている。

辻さゆり:村役場が今回出した英語版パンフレットですが、表記の揺れが致命的です。「k-o-k-o」の「Kokoan」と「c-o-c-o」の「Cocoan」が同一ページ内に十数か所も混在しています。
徒然士:嘆かわしい。本来「小古庵」は九つの庵に由来する由緒正しき地名だ。ローマ字表記するならば、硬質で骨格のしっかりした「k-o-k-o」以外にあり得ん。「c」などという、何かをつまみそうな曲線を持つ文字は、我がここあん村の様式美に対する冒涜だ。
菜箸かな:(パソコンから視線を上げずに)でも徒然士先生、先生の大学のゆるキャラ、ご存知ないんですか。
徒然士:ゆるキャラだと。知の要塞「ここあん大学」にそのようなふざけたものが存在するのか。
かな:(苦笑)ここあん大学が「知の要塞」だったとは知りませんでしたが、「ココアちゃん」ですよ。
徒然士:ココアちゃんだと! 大学がそんな甘ったるい名前のキャラクターを作ったというのか! ちょんまげ生えるわ!
かな:(苦笑)ここあん大学がココアちゃんなんですから、ここあん村の表記も「c-o-c-o」の方がスペルの親和性が高いんじゃないでしょうか。外国の方も親しみやすいかもしれませんし。文字の並びだって、丸くて愛嬌がありますよ。
徒然士:文字が丸くて愛嬌がある? 文字にそのような役割はないだろう。
かな:でも、先生が最初に言ったんですよ。「c」は、何かをつまみそうな曲線だって。
徒然士:むむっ、しかし! そもそも、この村の源流と言える「小古庵」の文字に、「ココア」の要素など微塵もない!
さゆり:私も、徒然士先生に賛成です。村のローマ字表記の公式ルールが、ゆるキャラの名称に由来するなど、本末転倒です。ここは、ヘボン式ローマ字の規則に従い、「k-o-k-o」の「Kokoan」で統一するよう、すべて赤字を入れます。それが最も論理的で美しい。
(さゆり、ゲラでも何でもないパンフレットに直に赤字を入れる。すさまじい勢いで)
東山キイロ:(軽やかに現れるが、手にしたピッチャーからかなりの勢いで水をこぼしている)お冷やのおかわり、よかったらどうぞ……っていうよりも、そこで聞いてたんですけど、さゆりさん、「k-o-k-o」の「Kokoan」だと、「k-o-k-o」と「an」で分かれちゃって、「ココ」「アン」みたいじゃないですか。
さゆり:(赤ペンを動かしながら)「ココ」「アン」。それが何か?
徒然士:「c-o-c-o」だって、「c-o-c-o」と「an」で分かれるだろう。
かな:キイロちゃんは、「c-o-c-o」は、「ココア」と「n」で分かれるって言ってるんだと思いますよ。ねえ、キイロちゃん、「ココ」と「アン」で分かれてどうなるの?
キイロ:「アン」は、つぶあん、こしあんの餡ですよ。
徒然士:(手に持っていたコーヒーカップをガチャンとソーサーに戻す)あ、あんこ!
キイロ:ココア対あんこ。
徒然士:小古庵の「庵」は草庵の庵であって、ココアでも、あずきの餡でもない! 私の愛する枯れた様式美が、ココアはおろか、まんじゅうの中身に成り下がってしまった!
かな:「c-o-c-o」ならココア、「k-o-k-o」ならあんこ。どちらにしても、ここあん村は甘いお菓子の村になりそうね。
キイロ:塩塩なのに甘いお菓子って、面白いですね。
さゆり:甘いお菓子には、塩は欠かせない。
かな:話がずれてる。
キイロ:だったら、間を取って「c-o-k-o」で「Cokoan」にすればいいんじゃないですか。ココアとあんこのいいとこ取りで、ココあんこ!
さゆり:(赤ペンを持つ手が空中でピタリと止まる)「c-o-k-o」で「Cokoan」。ヘボン式でも訓令式でもない、完全なる言語のキメラです。
徒然士:ココあんこ。5拍目の「こ」はどこから出てきたんだ。和洋折衷以前に、もとの言葉から逸脱している。ちょんまげが抜け落ちて、大福に突き刺さりそうだ。
キイロ:わ、なんかダイナミックですね。ちょうど、ここで出す、新しいケーキのアイデア探してたんです。大福に黒いチョコ棒がグサッと、よくないですか? 志乃さーん(小古庵のママ)、新しいケーキのアイデア……。
(キイロがカウンターに声をかけ、厨房の奥へと消えていく)
さゆり:(無表情のままゲラを裏返す)赤字を入れる気力も失せました。
徒然士:(カウンターに突っ伏す)私の小古庵が。
かな:先生、今のは、「c」のほうですか、「k」のほうですか?
(幕)
作・千早亭小倉







