【登場人物】
平泉 慧:ここあん大学院生(理論物理学専攻)。究極の省エネ主義者だが、書道家・硯毛八の引く線にだけは「初恋」を抱いている。
氷上 静:ブックカフェ「シズカ」オーナー。現代思想家。理屈で世界を定義しようとする。
中野 小春:「シズカ」共同オーナー。嘘や建前を直感で感じ取る受容の器。
【場面設定】
ここあん湖畔のブックカフェ「シズカ」。入り口の木製看板の前。氷上静と中野小春が開店前の落ち葉を掃いているところへ、平泉慧が通りかかる。

平泉慧:(看板の前でピタリと立ち止まり、じっと文字を見る)
中野小春:あ、慧ちゃん。おはよう。どうかした?
慧:おはようございます。この看板の文字、硯先生の筆じゃありませんね。
氷上静:(竹箒の動きを止め、慧を見る)ええ。普通の明朝体をベースにしたものよ。この村は、看板から路面の「止まれ」に至るまで、毛八体とやらに侵食されているけれど、私の店にあの過剰な熱は合わないから。
慧:熱ではありません。あれは、運動エネルギーの完璧な軌道です。
静:(少し興味深そうに)軌道?
慧:筆先が紙に触れ、離れるまでの速度、重力の抜け方。硯先生の引く線には、無駄なエネルギーの消費が一つもありません。三次元の空間において、あれ以上美しい最適解はないです。私の「初恋」です。
小春:(箒を持つ手を止め、目を丸くして)えっ、慧ちゃん、毛八さんのこと好きなの?
慧:(全く表情を変えずに)硯先生の普段の生活は無駄が多過ぎて、人として学ぶべき点は皆無です。ただ、先生の引く線は、私の初恋です。
小春:照れないんだ、素敵。
静:線は初恋……人ではなく、線に恋をしているのか。ずいぶんと器用な切り分け方。まあ、あの男の文字が、理屈を飛び越えて直接肌にぶつかってくるような、厄介な重さを持っていることは否定しないが。
小春:そういえば静さん、この前、毛八さんが走り書きしたレシートの裏のメモを見て、ぽつっと「男前」って呟いてたよね。
静:(竹箒の柄をぎゅっと握る)小春。
小春:静は照れるんだ。でも、言ってたよ。「理屈はいいから今日はもう寝ろ」って書かれたメモ見て、動揺した風で。
静:(口元をわずかに引き結び、同じ場所の落ち葉を何度も掃き始める)言ったことは認める。
慧:硯先生が「男前」。
静:(顔を上げず、箒を動かす手だけが早くなる)あの時の彼の文字は、私の思考の枠組みを物理的に超えてきた。だから、そう言ったまで。それ以上でも以下でもないわ。(小春に向かい)なぜそれを今ここで持ち出す必要がある?
小春:ふふっ。だって、静さんがそんなこと言うの、初めてだったから。
慧:(静をじっと見つめ)静先生。私の初恋の線を、「男前」などという曖昧な言葉でくくられるのは、少しモヤモヤします。
静:(ピタッと箒を止め、慧を睨む)曖昧とは心外ね。私の定義した「男前」は、あなたの言う最適解と同じくらい正確な事実よ。だいたい、線を「初恋」などと呼ぶあなたに言われたくないわ。
慧:私の計算は常に正確です。
小春:(くすくす笑いながら、二人の間に入る)はいはい、二人ともストップ。毛八さんの文字がない看板でも、お店の中のコーヒーの味は変わらないから。ね、慧ちゃん、入って飲んでいく?
慧:(数秒考え、小さく頷く)今月分の発話をしてしまいました。コーヒー、頂きます。
(慧はふたりをおいて、店の中に入っていく)
小春:でも、いい言葉じゃない。「男前」。静に言われて、字も喜んでるよ。
静:(深くため息をつき、頭を振る)私の店は、どうしてこうも噛み合わない議論の交差点になるのだろう。
小春:ふふ。なんだか、文字みたいに重なるね。
(小春が、指先で「十」の字を空書きする。静はそれを眺めつつ、諦観の笑みを浮かべる)
(幕)
作・千早亭小倉






