コントパターン:3「不条理な権力勾配」
【登場人物】
高島 雅也:ここあん村立図書館館長。正論の鎧を纏った孤独な完璧主義者。
菜箸 千夏:ここあん村立図書館主任司書。移動図書館ロマコメ号の運営責任者。
【場面設定】
ここあん村立図書館2階、ガラス張りの館長執務室。デスクのアクリル板が光っている。千夏が決裁用のバインダーを抱えて立っている。

菜箸千夏:高島館長、移動図書館ロマコメ号のオーニングを固定するネジが1本、外れてしまいました。ホームセンターで購入するための「雑費申請書」です。88円。決裁の押印をお願いします。
高島雅也:君がホームセンターまで買い物に行くというのか? 専門の業者を呼びなさい。
千夏:仕方ないじゃないですか。池袋からここあん村までの時空が歪んでるせいで、だれも修理に来たがらないんです。
雅也:(書類を指先で押し戻し、静かに眼鏡を直す)菜箸くん。この申請を私が今すぐ承認すると、公共施設としての公平性が根底から崩壊することに、君は気づいていないのかね。
千夏:88円のネジ1本の購入許可で、ですか? 崩壊?
雅也:金額の問題ではない。館内の全設備にはそれぞれ予算が割り振られている。ロマコメ号という特定の車両だけに優先して88円を支出することは、たとえば、本館3階で復旧を待っている児童書フロアの書架に対する明白な差別だ。すべての棚に等しく88円の利益を配分してこそ、真の公的正義と言える。
千夏:3階の書架は直射日光を浴びません。ロマコメ号は外でオーニングを開くので、ネジが外れた隙間から強い日差しが差し込んで、棚の絵本が日焼けしてしまいます。
雅也:日差しを理由に特別扱いを認める前例を作れば、明日は乾燥を理由にした申請が来る。
千夏:来たら払えばいいじゃないですか。
雅也:(無視)だから私は、裁量による決定を下さない。私が決定を下せば私の職権の行使になり、君の現場判断という自主性を奪うハラスメントになるからだ。
千夏:何ハラですか、それ? ネジスメント?
(雅也、千夏の「ネジスメント」に受けそうになり、慌てて厳しい顔を作る)
千夏:ええと、私が勝手にネジを買ってくればいいということですか? 自主性を奪われずに。
雅也:逆だ。君が自分で自分を却下したまえ。君が「このネジを買うべきではない理由」を3点挙げ、自発的にこの申請を取り下げる。それが最もリスクのない、民主的な合意形成だ。
千夏:は? 却下理由を自分で挙げるんですか。
雅也:そうだ。君の口から言えば、誰も傷つかない。
千夏:あの、今週いっぱい酷暑らしいので、なるべく早く押していただけませんか。
雅也:引っかからなかったか。
千夏:聞こえましたよ。
雅也:(無視)いま、君は、「なるべく早く」と言ったな? それは、誰の基準かね。
千夏:私の、いえ、太陽基準です。
雅也:曖昧な言葉で責任を煙に巻いてはいけない。「なるべく」の定義だ。私の歩行速度か。君のタイピング速度か。それとも村の平均的な成人女性が小走りになる速度か。秒数で定義されていない言葉に、公印は押せない。
千夏:高島館長。
雅也:なんだね、「ネジスメント」の次は「早くメント」かね。定義が言えないなら出直しなさい。
千夏:(手元の時計をじっと見つめ、すっと姿勢を正す)館長が今、公平性と定義の確認に費やした時間は、ちょうど14分です。
雅也:時間。正確な手続きには相応の確認時間が必要だろう。
千夏:館長の時給を村の規定に基づいて換算すると、この14分間で約560円の人件費が消費されました。
雅也:な、なにを。
千夏:88円の支出を回避するために、すでに560円の税金が無駄に溶けています。これは全村民に対する背信行為であり、明白な職務上の過失です。さらに、あと1分議論を続ければ、人件費の損失は600円に達します。
雅也:そんな大金が。(書類を持ったまま固まる)し、しかし、手続きの正当性は。
千夏:今すぐ押印されれば、損失は560円で確定し、最小限のリスク管理として処理できます。押さなければ、私はこの協議時間による損失記録を添付して、監査へ自己申告書類を提出しなければなりません。もちろん、館長の公平性のルールに従って。
雅也:監査。(額に汗を浮かべ、引き出しから素早く朱肉を取り出す)88円、承認。
(高島、無言で書類に素早く印鑑を叩きつける)
千夏:公平性万歳。館長の危機管理意識の高さに敬服いたしました。それでは、ネジを買ってまいります。
(千夏は一礼し、書類を持って早足で部屋を出ていく)
雅也:(朱肉を見つめたまま、小声で)自主的に却下したのは私のほうか。
(幕)
作・千早亭小倉





