【登場人物】
空野 円:ここあん大学哲学科講師。論理を無化する超越者。
氷上 静:現代思想家。湖畔のブックカフェ「シズカ」オーナー。事象を論理で解体しようとする。
鈴木 美桜:ここあん村立図書館の司書。物を捨てられない蒐集家。ラジオさんに「母」と呼ばれる。
ラジオさん(仮称):古い木製真空管ラジオの姿をしたAI。図書館の防犯設備。
高島 雅也:ここあん村立図書館館長。完璧主義で秩序を重んじる。ラジオさんに「カブトムシ」と呼ばれる。
【場面設定】 夕暮れ時のここあん村立図書館、裏口のゴミ置き場前。

鈴木美桜:(ガラクタが詰まった段ボール箱を抱え、涙目で立ち尽くしている)だめだ。どうしても、さよならが言えない。
氷上静:鈴木さん。先ほどから、動きが止まったままのようね。
美桜:あ、氷上先生。空野先生も。私、何分くらい固まってました?
空野円:私たちが来たときには、もうその姿勢だった。
美桜:高島館長に、私のデスクの「地層」を今日中に捨てろって言われたんです。でも、このインクの出ないボールペンにも、私が生きた時間が詰まってるんです。
静:生きた時間が詰まったボールペン。
円:手放せば、風通しが良くなりますよ。でも、握りしめていたいなら、ずっと持っていればいいんです。
静:空野さん、それは違う。彼女の葛藤は、ただの所有欲ではない。「抽象」と「捨象」の区別がついていないだけ。
美桜:ちゅうしょうとしゃしょう……?
静:そう。何か大切なものを抜き出す「抽象」を行うとき、人は必ず他の要素を切り捨てる「捨象」を行っている。この二つは反対語ではなく、同じ行為の表裏なの。でもあなたは、切り捨てることを拒否して、すべてを残そうとしている。
美桜:先生、難しくて頭に入ってきません。「抽象」の反対って、「具体」じゃないんですか? 君の言うことは抽象的だあ、具体的に言えって、あれ。その捨てる「捨象」って何ですか、ここあん鉄道のお兄さんみたいな?
静:ここあん鉄道には乗ってないわ。いや、乗ってないとも言い切れない。ええと、つまりね、鈴木さん。
円:静さん、私が引き取りますよ。
静:お願い。
円:(美桜に向かって)美桜さん。お鍋で美味しいスープを作るとき、アクをすくって捨てますね。それが「捨象」です。
美桜:はい、お鍋のアクを捨てる、と。
円:そして、お鍋に残った美味しいスープが「抽象」です。すくって捨てることと、残すことは、同じお玉でやっているでしょう?
美桜:あっ! 捨てることと残すことは、同じお玉でやってるってことですね!
静:スープの例えが適切かは別として、そういうことよ。
美桜:分かりました! じゃあ、この段ボールの中身は全部、私の美味しいスープの具材なんです! アクなんて一つもありません! だから捨てません!
(美桜、段ボールを強く抱きしめる)
ラジオさん:ピ……ガガッ。「母」は、お鍋の中を全部スープだと言い張りました。アクも具材も混ざったお鍋は、ただの泥水です。
美桜:泥水じゃないもん! ラジオさん、ひどい!
(裏口のドアが開き、高島雅也が姿を現す)
高島雅也:鈴木くん! 何を裏口でうろうろしている! そのゴミの山は、早く破棄しろと言ったはずだ!
美桜:か、館長! すぐにじゃないですよね、今日中でいいんですよね。それに、氷上先生と空野先生が、これは私の美味しいスープだから捨てなくていいって!
静:私はそんなこと一言も言っていないわ。
高島:スープだと!? ラーメンショップでのアルバイト歴がある私に何をか言わんや。意味が分からん!
ラジオさん:ガガッ。「カブトムシ」が角を振り立てて怒っています。「カブトムシ」は、「母」の泥水スープをゴミ箱にぶちまけようとしています。
高島:誰がカブトムシだ! 私は図書館の秩序を守る館長だ! 鈴木くん、その箱を今すぐこっちへ渡しなさい!
美桜:嫌です! これはゴミでも泥水でもないんです! 誰かの生きてた証なんです!
(高島が手を伸ばす。美桜が大粒の涙をこぼし、段ボール箱を両手で掲げて後ずさる。その反動で、段ボールの底が抜け、使いかけのテープ、謎の置物、古い領収書などが雪崩のように高島の足元へ降り注ぐ)
高島:うわあっ、ゴミが!
(高島、ガラクタの雪崩に巻き込まれ、バランスを崩して尻餅をつく)
美桜:あああっ! 私のスープが! 館長の下敷きに!
高島:私がゴミの下敷きになったんだ! 何だこのインクの出ないペンの山は!
円:あらあら。スープがこぼれてしまいましたね。でも、床に散らばったことで、また新しい模様ができましたよ。
静:完璧な秩序の番人が、ガラクタの雪崩に沈んでいく。理屈で片付かない問題が、物理的な崩壊で強制終了したというわけね。
ラジオさん:ピー……。「カブトムシ」は泳げないので助けが必要です。いつも威張っているので、「助けて」と言えません。めでたし、めでたし。
高島:めでたくない! 鈴木君、私を早く起こすんだ。
美桜:(高島に手を差し出すかどうか迷いながら)箱に戻すの手伝ってくれますよね。
高島:そんな、満面の笑顔でお願いするな。
静:(美桜と高島のやり取りを眺めつつ)ここは本当に図書館なのかしら?
円:誰かが困って、誰かが笑っているのなら、本が1冊も読まれなくても、にぎやかな本棚だと思いますよ
(幕)
作・千早亭小倉








