本作は、著者である千早亭小倉の実体験をベースにした自伝的掌編集です。物語は主に小学生の主人公はるひこの視点から語られ、限られた言葉しか発しない弟のなつひこ、不機嫌で頭から湯気を出す父、そして日常に疲れ気力に欠ける母という4人家族の姿が描かれます。
昭和四十七年、上野動物園に初めてパンダがやって来て世間が沸き立っていた頃、世田谷の片隅で暮らすある一家の、可笑しくて少し切ない日常を描いた物語です。
語り手は、小学五年生の長男・はるひこ。彼は二冊の国語辞典を持ち歩いては同じ単語の「例文」を読み比べ、教室の後ろに私設の「はるひこ文庫」を残すためにわざわざ一時間かけて電車通学を続ける、筋金入りの観察魔です。そんな彼には、五歳になる弟のなつひこ(なっちゃん)がいます。なっちゃんは普通の言葉を話さず、いつもご機嫌そうに「らっら、らっら」と歌うように声を出し、白い陶器のレンゲや小さな虫メガネをミリ単位の正確さで床に並べ、移動するときは横向きにぴょんぴょんと跳ねて走ります。
二人の周りを取り囲む両親もまた、強烈な個性の持ち主です。父親のまさよしは、すぐに怒っては頭から湯気を立ち上らせ、敷きっぱなしの布団から怪しげなキノコを生やしてしまう頑固な弁護士。母親のみちこは、日々の家事と育児にくたくたに疲れ果て、いつも居間のソファに倒れ込んでいますが、時折「黄色いの」と呼ばれる素朴な手作りおやつを焼いてくれます。
本書の前半を構成する連作短編小説では、はるひこの少年の視点から、この風変わりな家族の日々が生き生きと描かれます。なっちゃんがモーツァルトのレコードを聴いて突然涙を流す理由を辞書の言葉から探ろうとしたり、カセットテープレコーダーで家の中のバラバラな物音を録音したり、弟を自転車の荷台に乗せて遠くのショッピングセンターへハンバーグを食べに行ったり。近所の子どもになっちゃんの話し方をからかわれれば全力で威嚇し、弟が突然感情を爆発させて自分の頭を叩き始めればどうしていいかわからず途方に暮れる。はるひこは、弟の行動を医学的な名前でくくるのではなく、ただ目の前にある不思議でかけがえのない世界として受け止め、自身のスクラップブックに丹念に記録していきます。
中盤に収められた十五編の「箱庭コント」は、そんな一家の日常を軽妙な会話劇へと仕立て直した圧巻のパートです。はるひこが持ち出す辞書的な屁理屈や子どもの素朴な疑問に、堅物の父親が難解な正論で応酬し、母親が気だるいツッコミで受け流す。その間を、なっちゃんの「らっら」というハミングと突拍子もない横跳びが心地よくかき乱していきます。誰も他人の話を聞いていないようでいて、どこかで絶妙に響き合っている四人の掛け合いは、思わず声を出して笑ってしまうおかしみに満ちています。
さらに物語は、台所で孤独と疲労を抱えながらラジオに耳を傾ける「母の章」や、学校で周囲の輪郭を鮮やかにずらしていく少年を温かく見守る「教師の章」、一家の特徴を荒唐無稽な冒険活劇に昇華させた「落語」など、多角的な視点へと広がっていきます。
そして最後に置かれた現代のエピローグでは、時が流れ、老いた父親と、大人になった弟を訪ねる「ぼく」の姿が静かに描かれます。かつて昭和の居間に溢れていた湯気や物音、レンゲのぶつかり合う音、そして「らっら」という声が、長い年月を経てあたたかな余韻へと変わる瞬間。
昭和という時代の空気感を背景に、ままならない現実をユーモアで包み込みながら、家族という不思議な結びつきをまっすぐに見つめた、笑えて心温まる一冊です。
はるひこ家の昭和レトロコント
※以下は、本サイトで公開中のもの。



